昭和五十六年五月十六日 朝の御理解
御理解第二十四節「人に誘われて、しょうことなしの信心は、つけ焼き刃の信心じゃ。つけ焼き刃の信心は取れやすいぞ。どうぞ、その身から打ち込んでの真の信心をせよ。世に勢信心ということを言うが、一人で持ちあがらぬ石でも、大勢かけ声で一度に力をそろえれば持ちあがる。ばらばらでは持ちあがらぬぞ。家内中、勢をそろえた信心をせよ。」
信心が分かると、信心が分かるという事は、神様を認めるとか、又は信ずるとかと言う事に繋がるでしょうが。その神様をいよいよ分かった上にも分かる事の為に修行がある。実験がある。実証がある。いよいよ神様を間違いない神様だなあと言うふうに信ずる事の出来れる人達が勢をそろえていく。
いかに今日の御理解にありますように付け焼き刃の信心なんじゃらかんじゃら分からんけれども、わあわあ言うてお参りをしておる。まあ言われたから参ってみろうかというお参りというのでは力がない事でございます。どうぞ。
むしろ一つの物を持ち上げるにでも力もない者がそれを集まっただけではかえって邪魔になるような感じである。少しでもそこに信ずる力をいわゆる神様が分かってからのものがこう、例えば家族勢を揃えるというか、教会勢を揃えるというか、そういう事になってこなければならない。
昨日富久信会でございましたが、丁度半ばに吉井の熊谷さんの所の長男が東京へおられます。まあ大変おかげを頂いております。夫婦で参ってまいりまして一口じゃあありましたけれども「則郎さん、あんたのように頭がよくて人からも愛される内容を持って、人物がよくてそして仕事が切れるというのだから、あんたが成功せん筈がなかばの」ち私が申しました。そんな人がありますよね。
けれどもいかに親が成功したからというて、なら子供が、親が子供が親の通りの子供が出来りゃあよいけれども、ではないとならこれは親一代という事になる。
信心とはね、そのあのう子にも孫にも伝わっていくようなという話をさせて頂いた事でしたけれども、兎角人物が良うてもう行き届いて親切でまあ云うなら、人徳を受ける人、人から信用を受けられる人がお商売をするなら絶対その商売は繁盛しますよね。
昨日のあのう私は高柴さん所の隈井さんのお店が今日、明日からですかね開店は、の前にお招きを頂いて昨日あちらにまいりましたが、もうその行き届いておられる事というか、まあこれならば、仕入れ先にでもお客さんにでも信用される筈だと、繁盛する筈だと、そりゃあ見事なお店が今度あの卸屋街に出来ましたんです。けれどもならその現在の隈井さんなら隈井さんのように行き届いて、その頭がようて人に親切でお客さんからも信用されるような内容を持っておるような子供が出来ればよいけれど、そんな事じゃないかも分からん。だからどうでもあのう、昨日丁度富久信会での会の半ばでしたから皆にも聞いて頂いた事でしたけども、例えば久留米の佐田さんとかね、正義さんの場合なんかは信心がなかったっちゃ成功するタイプです。絶対あんな生き方でいくならあのう商売繁盛するです。その上に信心があるから鬼に金棒である。子にも孫にも伝わって行くものになるのだと。私は則郎さんにその事を聞いてもらいながらね、本当にそうだと思いますよ。
信心とは勿論人物もようなからにゃ出けません。教えによって人からもやはり信じられるような人物もよくならなきゃなりません。
人間と身代と健康とおっしゃりますからね。だから先ずはようなからなきゃならんけども、そういう人がありますよ信心はなくても。正直で商売上手で親切でまあ云うならば、人に愛される内容を持った人。そういう人達が熱心に商売をするんですから、絶対商売繁盛せん筈はないです。けどもそれはなら子供がその通りのものを頂けばいいけども子に孫にというわけにゃいかんのだと。信心によって徳を受けていわゆる親の代よりも子の代、子の代よりも孫の代と繁盛していく事を祈り願うならば本気で信心をしなければいけないよという話でございましたけれどもね。確かにそうだと私は思います。
そこでなら、信心の有り難い事を伝えてもなかなか伝わっていかない。そりゃ家族の者にでもよう伝わっていかないのだけれども、だんだんおかげを頂いて一人一人が云うなら神様を信じて疑わない、そして力を頂いていく事が一家中で力を揃えるというても、そういう願い、そういう力を持ち合うた者が勢を揃えた時に大きな力ともなってくるわけであります。
昨日の富久信会にまあ最後に申しました事でしたけれども、昨日は七、八名の方が発表されましたが、一人一人の発表を聞いてもういよいよ感心したんですけれども、今の発表した七、八名の方達が本当に合楽理念に基づいていよいよ実験実証が出来て有り難いおかげを頂いたら皆が富久信会に、例えば商売をして居る者が、商売は合楽理念を以てする他はないというような繁盛のおかげを頂くようになったらもう皆がついていくであろうと、不思議に沢山商売人がおるんだけれども、どうやらこうやらやっとるとは富久信会に出て来ん。というような傾向がありますけれども、これは言うても出来ん。だからこの問題はああた方の一人一人実験実証して本当におかげを頂いた暁には我も我もとやっぱ富久信会に参加させてくれと言う人が出来てくるだろうと思うのです。それが今の一人一人のお話しを頂いてこの調子でいくならばそれぞれの信心の段階に於いてですけれども、もう見事に合楽理念の実験実証なさっておられる様子を聞かせてもろうて大変心強い有り難いなあと思わせて頂いたんです。ああいう気持ちになるとね。神様が育てずにはおかんという働きが起こってくるんです。
例えば野村さんの発表なんか聞いておると、その前に加藤さんが大変な大繁盛のおかげを頂いておる話をなさいました。その後に野村さんが私は今の加藤さんと反対にもう何をやってもいけない、という反対の所を頂いておりますけれども、というてもうそれこそあのうなんというでしょうか、神様と日々お話し合いをしながら毎日を過ごしておられるといったような、いわゆる合楽的信心の進め方とでも申しましょうか。
どんな難儀が続いておってもそういうおかげを頂くならば有り難いのというて申しました事でございます。
どういう難儀な中にあってももうその前後に神様の働きと言わずに思わずにはおれない働きがおこっているんです。野村さんの周囲に、だからこの調子でいきさえすればいよいよ力が頂かれるおかげが受けられるという確信が生まれてくるです。
中に岡崎さんの私は長年信心しておられますけれども、最近云うならば目覚められたという感じですね。長い信心ですけれども信心に本当に目覚められたのは最近。そして言うておられます事は私は石田さんのおかげですというておられます。石田さんという熱心な方がお参りになって、その道中に途中に居られるわけです。だからもう兎角合楽の信心の有り難い事を出来るなら毎日朝参りでもしたいという方がそこに現れなさったわけ。だから乗せて来にゃ出来ん。そしてその方が有り難い有り難いといわれる、その信心内容に触れていきながら岡崎さん自身の今までの何か信心がいっぺんにこうまあ眠り半分のような信心がパチット目がさめたという感じです。
兎に角合楽通いが石田さんのおかげで楽しゅうなったと言っておられますもん。二、三日前でしたかね、合楽の云わば合楽は皆さんの心の古里だというように、云うなら撞念心が燃えてくるような信心にならなければという御理解を頂きましたよね。あん時の御理解は御理解の「理」という字から頂いたと思いますよね。理という字は王へんに里と書いてある。「王の里」である。合楽にそりゃ家からでも拝まれるけれども、合楽に行かなければ親先生には会えないという撞念心なんです。家から拝んだっちゃよか、おかげは頂く。でも合楽に行かなければ親先生とは会われない。というような合楽にかけるところの撞念心が燃えてくるとお参りが楽しゅうなって、それこそ胸をとどろかせながら、お参りが出来るのである。ああ今日も参らんならんというようなもんじゃない。その日の事を発表しとられましたがもう此の頃朝参りが楽しゅうなったという事なんだ。御祈念中に頂いたのがやっぱり王へんに求めるという字を頂いた。野球の「球」という字になりましょう。王を書いて求める。だから自分なりの解釈でまあ兎に角あの野球のまあ球めがけて投げられそれを、なら力一杯にまあ打ち返す、そこにホームランといったようなまあ私とちょっと意味の違ったような取り方をしておられたから私はそれを聞いて本当に感心してまあ理解づけてお話しした事でございました。
親先生が王へんに里という字を頂かれた。私は王へんに求めると頂いた。云うならば王を求めるという事。云わばその時に頂いた合楽に通う事がもう兎角楽しゅうなってきたと、そこに本当の求道というのはある。
信心を求める。信心を求めて止まない。求めれば与えられる。その心の云うならば瑞々しさというか生き生きとしたというか、その心がそのまま私はいよいよこころの古里は合楽だというような信心になってくるんだと思うんです。
だからあの日の御理解をもっともっとなら岡崎さんが深く頂かれてというような話をしておりましたら、その時頂いたそのまあ御神愛だと思います。御祈念中にふらっとこう眠ったような時に頂いたからお夢かも分からない。
けれどもそりゃあ御神願だろうというた事でしたが、それが先生そのあの求めるという字の中のシンがずうっと長く頂いたちいう。さあそれなんですよ。辛抱なんです。もう全く神様がね、誘導しとられる、教導しとられるという感じです。先だって北島さんが頂かれたように榊の木を芯にして菊の花を根締めにして花を活け上げておる所を頂いたち、榊というのは新芽ですから生き生きと瑞々しゅうしとるけれども、ちょっと水を吸い上げる事が出来なくなるとすぐにびっしゃっとこうまあ萎れてしまう。信心にはそういうところがある。もう兎角有り難い、もう勿体ない、朝参りが楽しゅうてこたえんとまあ確かにそうだったんだけども、何かの調子にちょっと心が神様から離れると確かなその新芽がこう萎れてしまうような事になるからそこん所を辛抱しぬけよと教えておられる事が分かるでしょうが。皆さん王へんに求める。しかも求めるの芯は長くこうやって頂く。これは昨日の岡崎さんの発表なんです。心を神様に向け出すとです、神様がそれをその限りなく誘導して下さろうとする働きが起こってくるんです。そういう信心ちゃ有り難いという事が分かった者が、云うならば、昨日七、八名の方の発表の一人一人のああた方がその調子でおかげを頂いた時に、これが勢を揃えるならばもう兎に角合楽は商売人が多いのですから、沢山な人の富久信会、大きな富久会が生まれるでしょうと言うて話ました事です。そういう人達が打って一丸になって合楽教会の事を祈られるという事になったらもう大変な力になるだろうと思うんです。これは合楽教会を中心にしたお話しですけれども、各々の家族に於いてもそうなんです。
家族中の者が神様が分かり、そしてそれを信ずる稽古。分かって信ずる稽古をしていく者同志が私は勢を揃えた時に始めて一人ではどうにも出来ない、持ち上げる事も出来ない、物も持ち上げるようなおかげになってくる。
神様を分からない、信ずる事も出来ない人達がいくらそれこそ烏合の衆が集まった所で大した事は出来ない。これは教会を中心にしたお話しですけれども、各々の家族の中でも親子夫婦皆がそういう神様が分かり、そしてそれを信じていく稽古をさして頂くものが、一二の三で掛け声を揃えて勢を揃えた信心をさせて頂くならばですね、確かにおかげを頂く事が出来るでしょう。家にお徳を頂く事が出来るでしょう。そのお徳でなからなければ子にも孫にも伝わらないね。今申しますように、今日隈井さんのお店を見せて頂いて素晴らしい、勿論両親が一生懸命信心するからね、おかげを頂いとるという事は間違いないですけれども、例えば信心はなかっても隈井さんのあの行き届いた生き方でするならば、卸先からでもお客さんからでも信用される内容を持っとるね。けどもそれがどうでも自分一人で繁盛発展したからというて、その親爺と同じような生き方に子供がなってくれればよいのだけれども、でなかったらも親爺、親一代という事になってしまう。
信心とはその子にも孫にも伝わっていくような力お徳を受ける為の信心でなからなければならないね。たしかにそうです。なら佐田さんあたりのような方が信心がなかってお商売をしたら、してもおかげは頂くでしょうね。昨日一昨日でしたか、久富茂雄さん所の國雄さんがあのう自動車の事でお伺いに来た。自家用車がもう替えんならんような時期になっとるけれども、ついこの頃あの一番大きなトラクターですか、を買わせて頂いたから、こん年一年くらいは辛抱したいと思うておりましたら、笠さんから勧められてこうこうだと言う。だから私が申しました。笠さんの言わっしゃる通りした方がよかばいち私は言いました。もう笠さんの言う事なら間違いなか、神様が言いござるととおなじこつばいち、と言うて勧めました事でございましたけれども、その位な信心を頂きたいですね。私がいいよるこつは神様が言いよんなさるとと同じ事と、私は思うとりますがね。私は笠さんをなら生き方を信じておりますから、國雄さんに言いました。もう売らんかなで勧めよんなさるとじゃない。これを買うときなさりゃ間違いなしにいいから、勧めよんなさるとじゃから笠さんの言わっしゃる通りしとくがよかばいと私は申しました。という位に人からも神様からも信じられるようなお互い信心を頂きたい。そういう信ずる力が集まって本当の力になるという事です。 どうぞ。